2013年京都の旅。第二夜。~身が引き締まる~

深夜バスにやられながらも、なんとか当初の目的地に到着する。
平安京への遷都で知られる桓武天皇がおられる場所が柏原陵である。とはいえ、ここ、と決まったのは近代になってからだとか。かつてこの場所には豊臣秀吉が築いた伏見城の二の丸があったのではないかと推測されている。

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臣下の身で立ったままの参拝は恐れ多くて出来ない。無論、ぬかずいて参拝をした。

次に地図を確認して桃山御陵へと向かう。

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ここは明治天皇の陵である。かつて、伏見城の本丸が築かれていたそうな。

脛からじわりと寒気が這い上がってくるのも厭わず、しばらくそこにぬかずく。
近現代の歴史、様々な事に思いを巡らせる。
どのくらいそうしていただろう。ようやく立ち上がった時、

「なんや、旅の人かいな?」

60がらみの男に声をかけられた。

「ずいぶん熱心にお参りしとったようやけど、どこからきた?」
「茨城から・・・」
「ほう、わしな、トラックドライバーやっとってな。いやあ。今は引退しとるけど、茨城あたりもよう行ったわ。わざわざ遠いところから来とるんや。これも何かの縁や。よっしゃ。いっちょわしが写真撮ったるで」
「いや。それには及びません・・・」
「なんや。遠慮すな。カメラくらいもっとるやろ。ほらほら。折角の記念や。はよカメラ出しや」

ぐいぐい押してくるお父さんに負けて、一枚写真を撮ってもらったのだが、そこには複雑な表情をしたウチがいた。

「なんや。一枚でええんか?何枚でも撮ったるで!」
「いやいやいや。本当に充分でして・・・」
「そか。これからどこ行くん?」
「伏見のお稲荷さんへ行こうと思ってます」
「そらあ、あんた。ええ心がけやで。上まで行くんやったら左回りよりも右回りの方が楽やし、そっちが正式な回りかたや。覚えときなはれ」

右回りがキツイと言う人もいれば左の方がキツイという人もいる。これはもう自分の体で確かめるしかないが、そうか。左がキツイ・・・か・・・。

どうもこのあたりは地元の人のジョギング&ウォーキングコースになっているようだ。声をかけてきたお父さんもジャージに身を包み、ウチと別れた後、同じ格好をした仲間たちとどこかへ歩いて行った。

さて・・・と。いろいろあったが、もちろん伏見桃山東陵へと向かった。

途中にあった植え込み。

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どことなく蛇の形に見える。今年が辰年だからだろうか?

明治天皇皇后、昭憲皇太后の陵である。

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時間が早かったおかげか。ウチのような旅人の姿はなく、地元の人をちらほらみかけるくらい。冬のピンとした空気と静寂のおかげか、陵をより一層神聖な存在と感じた。

この後、乃木大将が祀られている乃木神社に立ち寄った。

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そんないタイ親父ギャグはもうたいがいにせいといいタイ!

・・・。

さて。ここ乃木神社は日露戦争の英雄、乃木希典大人之命が主祭神の神社である。

一部で乃木は無能であったとの見解がまかり通っている。これは間違いである。そういう人が根拠とするのが、司馬遼太郎著、坂の上の雲で描かれた乃木像であろう。だが、坂の上の雲はあくまで小説である。司馬遼太郎は小説家であって歴史家ではない。ここを混同してはならない。

今から考えれば機関銃と歩兵が戦えば、歩兵側に大損害が生じることくらい誰でも分かる。ただ、それは日露戦争から百年以上たち、その間に人類が様々な事を経験したから言える事だ。日露戦争における旅順攻略戦は、近代戦争の先駆けであり、機関銃に歩兵が突撃した場合の結果を予想する経験値がまだ人類にはなかったのだ。

世論や軍隊の内部など周囲が何かとやかましく、人員も物資も不足する過酷な状況にあって、人類初の近代戦を遂行し勝利をおさめたのだから、無能な人物などではなかろう。人的被害は多大であったが、そこだけをもって無能呼ばわりするのはいかがなものか。

まったく前例のない仕事を任されたとしよう。分からない事を聞く人もいなければ資料もない。無から手探りで積み重ねていくわけだが日々迫る納期、遅れる仕事を叱責する上司、残業続きでかさむ経費に経理は苦い顔をし、なかなか形にならない仕事に顧客からは無能呼ばわりされる。かかるプレッシャーから胃はキリキリとしてくるし、そんな現実から逃げ出したくなる毎日だろう。ましれやこれが、国家・国民の存亡を左右する戦いとなれば尚更の事だ。

乃木は西南戦争において、大元帥陛下(明治天皇)より賜った軍旗を喪失するという失態を演じている。罰を求めたが逆に戦功を認められて出世する。この事がよほど気に入らなかったのだろう。この後、しばらくの間、酒と女に溺れる日々を送っている。しかし、ドイツ留学が転機となり生活態度が一変する。寝る時以外は軍服を身に着け、質素倹約のの生活を送った。日清戦争でも戦功をあげるが、当人は死に場所を求めて戦場を駆け抜けた結果に過ぎないと思っていたかもしれない。数え年18歳で初陣し何度も重傷を負ってもそれでも生き延び、大勢の同志・部下を失いながらもおめおめと生き抜いてしまった。この事が乃木の苦悩の底辺にあり、それを土台にして独自の死生観・精神論が組みあがっていったのではないだろうかと思う。死をも恐れぬ覚悟、決して砕けない強い決意、大勢の将兵が勇猛に戦えたのも、上に立つ乃木の心が伝わったからではないだろうか。

戦後、乃木は凱旋将軍と称されるが、戦勝に浮かれるどころか大勢の将兵を死なせてしまった自責の念にかられていた。
明治天皇への軍状奏上で、切腹を願い出たのはそうした心の表れであろう。明治天皇は、
「今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとならば朕世を去りたる後にせよ」
と諭している。

明治天皇は西南戦争で軍旗を喪失した連隊長として乃木の事を知り心に留めておられた。
明治35年、明治天皇の統監による陸軍の大演習が熊本県を中心に行われた。明治天皇がお乗りになられている列車が西南戦争の激戦地、田原坂に差し掛かった。
「武士の攻め戦ひし田原坂松も老木になりにけるかな」
明治天皇は和歌を和紙にしたためて、乃木の下に届けさせた。
「国に十分に奉公し報いたではないか。もう苦しまなくてもよい」
乃木は明治天皇の大御心を知って、嗚咽したという。

大正元年9月13日、御大葬の日が明けたこの日の午後8時、御霊轜が宮城を発つ合図である弔砲が放たれると、乃木は砲声を聞きながら殉死した。明治天皇と乃木の間は我々の想像が及ばないほどの深い深い絆で結ばれている。明治天皇の陵のすぐ側に乃木神社があるという事。肉体は滅しても結ばれた絆は永遠に繋がっているのだ。

さて、乃木神社を去る前におみくじを引いてみた。
このところ、立て続けに”大吉”を引いている。ここでも”大吉”を引き当てた。

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全てよし!
今年はいい事があるかもしれない・・・。と、この時は思っていたのだ。

大吉に浮かれながら次の目的地、伏見稲荷を目指して桃山駅で乗車、奈良線を北上する。

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