歴史解釈は倫理をふりかざしての過去の裁断ではない

不適切なたとえかもしれないが、政治家にとって言葉とは商品であり飯の種である。不良品を出してしまえば赤字を抱え込んで場合によっては倒産する事もある。不良品を売ってしまいその職を追われた政治家は古今東西枚挙にいとまがない。そうした政治家の多くは弁明しようにもそうした場を与えてもらえず、マスコミの煽りに同調した有権者の圧力に耐えかねて職を辞していく。だが、ごくまれに例外も存在する。維新の会の橋下共同代表はその例外の一人だ。昨日、テレビ番組に出演し、一連の発言に対する批判への反論を展開した。橋下氏を番組に出演させれば視聴率の上昇が期待出来るという計算もあるのだろう。しかし、橋下氏の発言を聞いていると保守・右寄りのようでいて、その実、東京裁判史観から抜け出せない左翼であり、多くのマスコミの主張に極めて近い位置にいることから、番組に長い時間出演させても不都合な事はあまり喋らないだろうというテレビ局側の思惑を推察してしまう。

「沖縄を直視して…」“橋下発言”批判に改めて反論(05/19 11:50)
日本維新の会の橋下徹代表はテレビ朝日の番組に出演し、従軍慰安婦や風俗業を巡る自らの発言に国内外で批判が高まっていることに対し、改めて反論しました。

 橋下代表は19日朝、報道ステーションSUNDAYに出演。従軍慰安婦について日本の責任は認めたうえで、アメリカからの批判には反論しました。
 日本維新の会・橋下徹代表:「アメリカが人権を大事にする国なら、まずは沖縄で行われていることを直視してほしい。アメリカは自分たちの過去のことを棚に上げてるから、沖縄の人権蹂躙(じゅうりん)行為に本気になって取り組んでいません」
 また、18日に開かれた日本維新の会の幹部会合で議員団から厳しい意見が相次ぎ、「迷惑をかけたことは謝罪した」と明かしました。橋下代表は19日午後、石原代表と歴史認識などについて協議するとしています。


自身への批判の矛先を、沖縄を利用してアメリカへと向けさせたいと聞こえてしまうのは橋下氏の事をあまりよく思っていないからだろうか。
さて、橋下氏の発言の中で『日本の責任』という言葉が頻繁に登場する。
慰安婦の問題では、現在の倫理観からすれば女性の人権を踏みにじる許しがたい行為である。しかし、当時は合法であり日本以外の国でも慰安婦制度を利用していたのだから、現代の倫理観をもって責任を求めるならば、日本だけでなく慰安婦制度を利用したすべての国に対してその罪を問うべきである。

ただ注意しなければならない事がある。慰安婦を合法とされると困る連中が日本にいることだ。彼らは意図的に慰安婦=性奴隷という図式を作り、日本が言う慰安婦は他の国とは違うというデマを拵え、せっせと世界にばらまいている。彼らとは朝日新聞を筆頭とする反日メディアであり福島みずほをはじめとする不勉強な政治家などである。日本の品位を汚し国益に重大な損失をもたらした彼らを国会で証人喚問し、過ちを厳しく糺すことが国際社会からの信頼を回復する第一歩になる。

繰り返すが、慰安婦は当時は合法だったのだから、日本が取るべき責任など存在しない。日韓の間の懸案事項は日韓基本条約で解決済みであり、国際ルールを無視して何度も蒸し返しては外交カードに使う韓国こそ、ルール破りの責任をとって日本に対して土下座すべきである。

こう書くと、『日本を法的に問えなくても実質的には侵略戦争をしたのだし、それに日本はアジアの人に残虐な行為を働いたのだから道義的に断罪されて然るべきだ。慰安婦はその代表的な被害の一つである』と反論する人もいるだろう。だが、法的根拠が無くても実質的・道義的な理由で断罪出来るのであれば、人間社会が長い年月をかけて積み重ねてきた論理や慣習、判例などを基礎とする法律の実効性を否定する事になる。彼らのこの無茶苦茶な論理で言えば、断罪されるのは日本だけでなく戦争をしたすべての国を対象としなければならない。彼らはこの事に気が付かず、あくまで日本だけを断罪したがる。なぜならば、過去の日本を否定する事で一歩先を行く善の日本人であるという自己を証明する為に、日本は悪でなければならないからである。東京裁判史観にすっかり洗脳されているからこそ戦前の日本は悪だったという思考から抜け出せず、狭い範囲でしか歴史を見る事が出来ない。橋下氏もこれに当てはまると言える。

橋下氏を狭い歴史館の持ち主だと断言する理由はまだある。橋下氏は「敗戦の結果として、侵略だとしっかり受け止めなければいけない」などと話している。橋下氏この言葉からは、日本は間違えた戦争、悪の戦争をしたから負けたのだ、それは即ち侵略戦争だという、東京裁判史観を感じる
1928年(昭和3年)、パリで『不戦条約』なるものが調印された。侵略戦争の放棄を謳った条約であったが、実際は穴だらけで、侵略の定義は当事国に任されていた。侵略戦争をするぞと言わず、自衛戦争だと言えば侵略戦争にはならなかったのである。戦争が当たり前に存在した時代に高邁な理想をいくら掲げたところで何の役にも立たない。戦って独立を守るか、戦わずに植民地になるか。そういう時代にあって日本は戦う事を選択した。敗戦という結果が待ってはいたが、本来戦争とは国家の主権的権利であり、罪に問う事は出来ない。そのため、東京裁判では『平和に対する罪』という事後法を作って一方的に日本だけを裁いた。この点だけをもってしても、東京裁判は不当であったと言える。国際法で裁けるのは、戦争中に民間人を虐殺した、捕虜を虐待したなどの戦争犯罪だけである。日本にもこれに当てはまる事例はあるであろう。だが、これを厳格に適用するならば、市街地への空爆や艦砲射撃、広島・長崎への原爆の投下、沖縄戦などで民間人を大量に殺傷したアメリカもその罪に問われなければならない。

日本を侵略国だと決めつけ、未来永劫、すべての罪を背負っていくべきかどうか。東京裁判史観から脱却し、広い視野で歴史を見ればおのずと答えは出るはずだ。慰安婦に関しても、この事が問題となり騒がれる事が、不思議に思えてくるだろう。

今回、この稿を書くにあたり、牛村圭氏の「戦争責任論」という書籍を参考に自分の考えを述べさせていただいたが、間違えて理解しているところがあれば指摘して頂きたいと思う。

最後に、「戦争責任論」から抜粋した以下の文章をもって、この稿の締めくくりとする。

国益伸長を図って他国と矛を交える戦争では、敵国戦闘員の殺傷は避けられない。人を殺めることは、重大な犯罪である。したがって、殺人を前提とする戦争は犯罪であり悪行である、ましてや侵略戦争は許しがたい暴挙である、と今日の道徳基準を投影すると、複雑な近現代史を冷静に考察することはもはやかなわなくなる。平成の世の平和の中から、自国の過去を倫理・道徳で糾弾しても、歴史の正確な理解は望めないだろう。過去を知り、憤慨することもたしかに少なくはない。憤りは、時間的に近い時代を対象に起こりがちでもある。そんな時こそ、まずは気持ちを抑え、努めて虚心坦懐に一次史料にあたりたい。歴史解釈は倫理をふりかざしての過去の裁断ではなく、論理を駆使しての過去の再構築なのである。

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